ニップンの歴史

1873~1895

明治時代、当社の源流が軸となってわが国の近代製粉誕生の歩みを進めていきました。

Close

明治政府が進める北海道殖産事業の開拓使顧問として来日したアメリカ第2代農務長官のケプロンは、北海道の気候風土が小麦の栽培に適しているとして、道内の食糧は主食を米からパンに切り替えるべきだと提言するとともに、製粉工業振興の必要性を力説した。
それを受けて、1873年(明治6年)4月に官営札幌製粉所が設立された。

 

  • 米国から取り寄せられた種蒔き機などの農耕器具
    (北海道大学農学部第一農場
    撮影:村田一男)

  • 1952(昭和27)年、わが国最初の輸入製粉器の石臼が当社の札幌工場で発見された
    (撮影:村田一男)

Close

明治を代表する企業家・雨宮敬次郎は商売を兼ねて欧米を旅行した際、米国の製粉事業と出会い同事業への進出を決意する。
「国を富ますには農を興すにあり、農を興すには製粉事業を盛んならしめざるべからず」
そして、1879年(明治12年)東京府南葛飾郡八右衛門新田(現在の江東区扇橋)に1,232坪余りの用地を購入して製粉工場を建設、民間人として初めて近代的な機械製粉事業に進出した。『東京府統計書』によれば、社名は「泰靖社」で、1883年(明治16年)における資本金は5万円、職工延人員は1,800人(年間300日操業なら職工数6名)とある。
その後1886年(明治19年)には、泰靖社とほぼ同時期に創業した官営浅草製粉所の設備払下げを受けて製粉事業を拡大した。

  • 「民営機械製粉業 発祥の地」の記念碑

Close

有限責任日本製粉会社は、陸軍を中心とした軍隊向けの安定した需要と、製粉能力の向上により順調に発展し、日本最大の製粉会社となった。しかし、その後に軍需品について競争入札制度が採用され、最大の事業基盤を失った同社は経営難に陥った。
そうしたなか、事業継続を任された新経営陣は、1893年(明治26年)7月に施行された会社法に規定された合資会社の制度により新会社を組織することを模索した。そして、有限責任日本製粉会社を解散し、新たに東京製粉合資会社を設立。当初は経営難に苦しんだものの、同年に勃発した日清戦争による特需を背景に業績を上げていった。

1896~1915

株式会社化などの組織改革をはじめ、工場設備の拡充、合併推進、販売方法の革新など、
その後の日本製粉の基盤づくりが行われました。

Close

好成績を挙げていた有限責任日本製粉会社にとって、生産システムの革新(石臼製粉からロール式製粉へ)に加え組織改革もまた急務であった。
そこで、1896年(明治29年)9月26日、民間ではわが国初の近代的機械式製粉会社として日本製粉株式会社を創立した。
創立後ただちに、工場敷地として旧工場(現在の江東区扇橋)に隣接した土地200坪弱を取得し、近代的な製粉工場(扇橋工場)の建設を開始。1897年(明治30年)9月には、サンフランシスコのワグネル製造所から購入した最新のロール式製粉機4台、リール型篩4組、セパレーター(精選機)、ピュリファイヤー、パッカー、エレベーター類が稼働し、200バーレルのロール式製粉機械の運転に成功した。

  • 小名木河畔の東扇橋町に建設された木造瓦葺4階建の扇橋工場(鈴木麻古等画)

  • ロール式製粉機第1号機

Close

高品質の国産機械粉を生産する近代的製粉企業として創立した日本製粉株式会は、製品の販売においても新しい方針を取り入れた。
そのひとつとして、扇面をデザインした社章に加え、製造者名と品質・等級を明示した商標を考案・登録した。さらに、製品の販売にあたり特約店制度を採用するなど、販売方法を一新した。また、特約店との取引はすべて現金取引に変更し、同時にきめ細かな割引特典を設けた。
これらの斬新な取組みは、品質の良さもあいまって製品の売上に大きく貢献。その結果、扇橋工場は1901年(明治34年)時点で能力の限界に達するほどの生産量を誇った。

  • 機械製小麦粉を印象づける基本商標と「松」「竹」「梅」の各商標

Close

急速な販路拡大にともない、製品の生産能力拡大は大きな課題となり、扇橋第二工場の建設計画が決定された。増設資金は社債発行で調達し、最新のロール式製粉機を導入して1903年(明治36年)10月に完成。同工場の操業により、製粉能力と製品品質の一層の改善を実現した。
さらに、1907年(明治40年)12月には兵庫(のちの神戸)工場が操業を開始。
明治40年代以降、製粉業界の中で常に最大の能力を擁した当社は、優越した地位を維持することを社是として、工場新設による能力増強を積極的に推進した。

  • 兵庫工場(のちの神戸工場)

Close

日清戦争後に勃興した近代的製粉業は日露戦争後さらに拡大発展し、大資本による製粉会社の新設が相次いだ。当社は近代製粉業の発展こそ創業の目標であるとの考えに立ち、新設企業への技術的な助力を惜しまなかった。
そうしたなか、新設の大製粉会社が次々に操業を開始した結果、市場はたちまち供給過剰となり当社を除く各社は欠損を計上した。なかでも、1907年(明治40年)に操業した明治製粉は早くも業績不振に陥り、同年12月に当社と合併した。
製粉能力の追求を企業経営の根幹に置いた当社は、競争力の強化をめざして大型合併をさらに推進。明治製粉に続き、1909年(明治42年)9月には帝国製粉を合併。これにより、企業規模は5工場、従業員数200名、生産能力2,500バーレルに達した。

Close

製粉業界が過剰生産力を抱え市況が低迷するなか、当社は新製品の投入を通じて積極的な営業政策を推し進めた。
原料にすべて高級輸入小麦を用いた新製品のパン用強力粉「クイン」「ジャック」「ナポレオン」は、高級小麦粉の製造販売に先鞭をつけた当社の記念すべき製品であり、当時、市場ではかなり好評を博した。
しかし、同年に勃発した第1次世界大戦の影響で輸入小麦が入手難になり、製造量が限られたため当初予想したほどの実績をあげることができなかった。
またこの頃、当社ではそば粉の製造販売を開始した。

Close

筑紫平野や熊本平野などで産する小麦を原料に用いる久留米工場は、当社として初めての小麦生産地立地工場であり、九州への工場進出という地域的拡大をめざす重要な橋頭堡であった。
1914年(大正3年)12月、新機軸の設備レイアウトを採用した鉄筋コンクリート造り6階建という、当時としては画期的な最新鋭工場が竣工。翌年1月から本格的な操業を開始した。

  • 完成時の久留米工場

Close

1916年(大正5年)、既存工場の動力を汽力から電力に切り替えた。これにより、燃料費の節減が図られただけでなく、電力は蒸汽機関とは違い、運転開始時のロスがないため、製品の品質向上にも大きな効果がもたらされた。

1916~1935

相次ぐ合併を経て、第一次世界大戦後の経済恐慌下、臨海工場建設、
そして、海外市場進出へとさらなる積極拡大策を推進しました。

Close

第一次世界大戦後に起きた戦後恐慌を受けて小麦粉価格が暴落し、製粉業界全体が過剰な設備を抱えて業績悪化に陥るなか、危機を乗り越えるため当社は大型合併による競争力強化を推進した。
合併は当社と縁の深い東洋製粉株式会社にはじまり、当時、三井、三菱と並ぶ三大財閥のひとつであった鈴木商店の経営する株式会社大里製粉所と札幌製粉株式会社、そして東北製粉と続いた。その結果、事業規模は全国11工場・7,750バーレルへと一気に拡大し、機械製粉能力は業界全体の40%余りに達した。
さらに、1925年(大正14年)7月に東亜製粉を合併、生産能力合計は1万5,550バーレルとなり当社の生産能力は一段と拡大した。

  • 大里製粉所ロール場

  • 札幌製粉(1907年ごろ) 

Close

相次ぐ合併を経て生産設備を急拡大させた当社は、安価な外国産小麦をさらに高能率に挽砕でき、かつ海外市場にも積極的に進出していける新たな生産体制の構築を計画した。
こうして1924年(大正13年)5月、横浜に建設されたわが国最初の本格的な外麦専用の大規模臨海工場が運転を開始した。
4,000バーレルの能力を誇る最新鋭の製粉機、そして、16基で原料小麦1万トンを収容する円筒型サイロや真空式吸揚装置により生産性は大きく向上した。 1924年(大正13年)9月には北海道に小樽工場、1928年(昭和3年)7月には名古屋築港埋立地に名古屋工場と、2つの臨海工場を誕生させた。

  • 小樽工場落成記念絵葉書

  • 竣工時の名古屋工場(1928年)

Close

創立当初から外地進出に強い意欲を抱いていた当社は、1934年(昭和9年)6月、東洋拓殖、三井物産、三菱商事および内地の製粉諸企業などともに共同出資し、本格的な外地製粉会社として、日満製粉株式会社を設立した。
こうして大陸への資本進出を開始した当社は、翌年、朝鮮(現在の大韓民国)に仁川工場を竣工。さらに、中国において1938年(昭和13年)7月に三興麺粉公司を、翌年には東亜製粉株式会社、翌々年には日中合弁で漢口製粉株式会社を設立。各社が良好な業績をあげ当社の収益向上に大きく貢献した。

  • 仁川工場(1935年竣工、朝鮮)落成絵葉書

  • 海外工場所在地図(1935~1945年)

1936~1955

海外進出による利益拡大から一転、戦時体制下での壊滅的状態、そして、
終戦直後のさまざまな試練を経て、新時代に向け新たな歩みを開始しました。

Close

戦争中の日本国内において、当社は戦時統制による企業活動の縮小、企業整備による工場廃止など多くの苦難を経験した。
さらに終戦間近、空襲が激しさを増すなかで工場が焼失、生産体制は深刻な打撃を受けた。

Close

昭和20年8月15日、太平洋戦争が終結した。終戦当時、国内外14工場のうちどうにか操業可能な状態で残ったのは、横浜・高崎・門司・小樽の4工場だけであり、国内製粉能力は7,466バーレルに落ち込んだ。
そうしたなか、1946年(昭和21年)3月、三井財閥関連の子会社であった当社は財閥解体を進めるGHQ(連合国総司令部)により「制限会社」に指定され、増資や社債発行・配当の決定や新規資本設備の購入や、借入などを行う際にはすべてGHQの同意が必要になるとともに、資産凍結などの措置を受けた。
さらに、1948(昭和23)2月には「過度経済力集中排除法」の指定を受け企業分割の対象にされたが、占領政策の転換とともに同法の方針が緩和され、また「制限会社」の指定も解除されることで、当社は企業存続の危機を免れた。

  • 復興途上の東京工場

Close

戦後、製粉業界は小麦粉輸出の減少、販売競争の激化、食生活の向上・洋風化という大きな変化に直面。素材としての小麦粉を供給する従来の製粉事業とは異なる研究・生産・販売体制の整備が当社にとって急務となるなか、新たに打ち出した取組みが、小麦の二次加工製品という新分野への進出だった。
そこで、当社は小麦粉の付加価値を高め、需要拡大につなげる二次加工技術の開発・新規分野の開拓を目的として、東京工場構内に中央研究所を新設。 その後、中央研究所の研究課題と研究成果の多くが実際に商品化された。

Close

戦争で壊滅的な打撃を受けた横浜、東京、小山、名古屋、神戸、久留米工場の復旧に全力を注ぐこと7年、戦災のなかった高崎・門司・小樽の3工場でも設備の増強を行い、全国9か所で工場の稼働が実現した。
これにより、1952年(昭和27年)夏ごろには総生産能力が、昭和17年当時の当社国内生産能力に匹敵する2万200バーレルにまで回復した。一方、戦時下の1940年(昭和15年)から原料・製品の流通過程に対して敷かれていた統制がなくなり、小麦粉の自由販売が開始されると、製品の品質競争がはじまった。そこで当社は、1952年(昭和27年)3月には本店に営業部を新設、基本的な営業方針の策定や全国的な出荷、在庫調整にあたらせるなど自由販売に対応するため販売体制の再編を図った。
また、同時に工務部研究課を独立させて中央研究所を設立し、品質に関する試験・研究を開始。さらに、各工場では1941年(昭和16年)の銘柄廃止以来10年以上も使用できなかった伝統ある製品銘柄を、品質のシンボルとして復活させた。

Close

戦後、日本では食糧難を解消するために、不足する米の代替品として小麦やとうもろこしを原料とした人造米がつくられるようになった。そこで、当社でも日粉食糧株式会社を設立して人造米の生産・販売を開始。製造設備や使用原料にこだわった人造米は、高品質なお米の王様、つまり「王米」であるとして、王冠の図柄の上に「Oh’ my」の文字を重ね、「世界水準を抜く」というキャッチフレーズとともに「オーマイ」の商標が誕生した。
そして、さらに「オーマイ」ブランドで発売した「オーマイカットマカロニ」「オーマイロングスパゲッチ」が大人気となり日本の食卓に浸透、「オーマイ」は国産パスタの代名詞となった。
その後、日粉食糧はニップン食糧、オーマイと社名を変更、平成2年(1990年)10月1日に日本製粉と合併し日本製粉が業務を引き継いだ。

  • オーマイカットマカロニの
    ポスター

1956~1975

二次加工製品分野への本格的進出、小麦胚芽製品・小麦胚芽油製品の開発、
小麦グルテンを原料とする植物性たん白食品の発売、そして冷凍食品事業の開始など、
技術革新を原動力として事業拡大を推進しました。

Close

二次加工製品分野への本格的進出、そして、悪化する市場環境への画期的な対応策として、当社は横浜工場へのニューマチックシステム導入を決断した。
このシステムは、従来のバケットエレベーターにより原料・半製品・製品の垂直輸送を、空気の圧力や吸引力を利用したニューマチックエレベーターで行うシステムで、運搬過程で自らエアーセパレートするなど精選効率が上がるほか、低温除湿による衛生面の向上、粉塵の飛散がないため工場内を清潔に保ち、爆発火災を防ぐなどのすぐれた特徴を兼ね備え、戦後の製粉業界における最大の技術革新といわれた。
設備計画は最終的に当時の資本金を上回る額に達し、まさに当社の命運を賭ける施策となった。
その他にも、新しい機械や新方式を導入した横浜工場の製粉ラインの完成は、その後の設備投資のモデルケースとなり、また業績を飛躍的に上昇させる原動力になった。

  • SKT(垂直船荷卸用コンベヤー)2基およびチェーンコンベヤー一式を基幹とする装置により、接岸する本船からの原料小麦を陸揚げするようす

Close

当社は、二次加工製品分野の新たな柱として「プレミックス」に狙いを定めた。
プレミックスとはケーキ、パン、惣菜などを簡便に調理できる調製粉のことで、中央研究所での研究を経て、1964年(昭和39年)1月、この分野の新製品としてドーナツミックス、ケーキミックス等のベーカリー製品用ミックス5種類が同時発売された。
続いて天ぷら、から揚げ等の調理食品用ミックスを手がけ、これ以後、東京工場を拠点に業務用と家庭用プレミックス分野への進出を図った。

  • 家庭用チキンフライミックス(1970年10月発売)

  • 家庭用パンミックス「ゴールデンアロー」(1972年4月発売)

Close

中央研究所では、1960年(昭和35年)頃から小麦の有用成分を利用する研究が継続的に行われてきた。そして、1969年(昭和44年)5月、その成果が実を結び当社から特許技術を生かした小麦胚芽製品「ファミリージャーム」が発売され、その後、1980年(昭和55年)4月に小麦胚芽油製品「ハイガッツE」が発売された。
なかでも「ファミリージャーム」は当社が手がけた健康食品の先駆けであり、同分野での代表的な加工胚芽製品として確固たる地位を築いた。 一方、小麦たん白のグルテンを利用した人工肉の研究を1966年(昭和41年)から開始し、独自製法によるわが国初の繊維状小麦グルテンの開発に成功した。 その後は改良を重ね、「マイミー」の名称で小麦グルテンを原料とする植物性たん白食品を発売した。

  • 小麦胚芽シリーズ

  • マイミー発売広告(1971年10月発売)

Close

1971年(昭和46年)2月、中央研究所でミスタードーナツ向けドーナツミックスが開発され、東京工場で製造を開始した。
そして、翌年の10月5日、当社の全額出資によりニップンドーナツ株式会社が設立され、ミスタードーナツのフランチャイズとして参加、その後、チェーンを拡大。チェーン店への供給を通じて、ドーナツミックスの生産量は飛躍的に増加した。

Close

昭和40年代に登場した、小麦粉の袋詰めの工程を省略してタンクローリーで出荷するばら出荷は、物流コストの削減に寄与する画期的な輸送形態であった。
当社では、名古屋工場を皮切りにばら出荷を開始。その後、ばら扱いの比重増大にともない、1972年(昭和47年)11月、当社はバルクユニットシステムという簡易粉体ばら化システムを開発した。小麦粉の受入れ、貯蔵、計量、配合、輸送等の作業を自動化・省力化するこのシステムにより、コスト削減を実現。保守管理が容易で操作が簡便でもあったため、当システムは高い評価を受けた。

  • バルクユニットシステム(1972年)

Close

1970年代前半(昭和40年代中ごろ)から、調理の簡便化志向が強まる中、家庭用の冷蔵庫が大型化し、冷凍庫を備えたものが一般化したことに加え、電子レンジの登場や外食産業の発展等により、冷凍食品の需要が急上昇した。冷凍食品の成長性に注目した当社は、1973年(昭和48年)から高崎工場を拠点に冷凍クリームコロッケの生産を開始。従来のコロッケとは違い、バタールーをベースにしたじゃがいもを一切使用しない本格的な家庭用高級クリームコロッケとして、主にデパートの対面販売を通じて消費者に届けた。
その後、当社の冷凍食品事業はピザ、ホットケーキ、パンケーキ等の冷凍スナック、さらに飲茶シリーズやグラタン、スープ、ハンバーグ等、豊富なバリエーションの製品展開を進めた。
また、1982年(昭和57年)には米国のリッチプロダクツ社とライセンス契約を結び、食品中の水分を結晶させずに冷凍するフリーズフロー技術を導入した。
このフリーズフロー技術を用いた冷凍食品は、解凍の必要がないため、冷凍庫から取り出してすぐに調理でき、しかもバクテリアの成育環境がなく保存性にすぐれているなどの利点があり、この独自技術を生かしたホイップ類、パイスクエア、クレープ、ワッフル等がラインナップに加わり、当社の冷凍食品事業は成長期を迎えた。

  • クリームコロッケ3種(1973年10月)の宣伝用チラシ

  • フリーズフローホイップ(1983年)

Close

大型船が接岸できる工場を阪神地区にも持ちたいという、当社のかねてからの意図を実現したものが神戸甲南工場であった。
製粉関係やサイロ関係に当時の最新鋭機を導入したのをはじめ、各工程の自動化、迅速化を目指して、原料小麦の受入れから製造した小麦粉をサイロに投入するまでの作業を集中管理する方式を採用することなどにより、一層の高性能化・高能率化を実現した。
その後、小山工場と神戸甲南工場に、プレミックス製造を受け持つ食品工場を新たに建設。これにより同工場は、西日本における食品部門の一大拠点となった。

Close

1972年(昭和47年)頃から、技術部開発課と中央研究所を中心に、麺の良い生地を作るということを目標に、製麺システムの研究開発を進めてきた当社は、1975年(昭和50年)、原料である小麦粉の供給から、製品包装までのラインを連続自動化にした製麺製造システムである「フロージェッター・システム」を開発。同年の「第11回東京国際見本市」に出品して大きな反響を得、全国各地から多数の引き合いがあった。

Close

小麦二次加工製品の分野では、製品の多様化を受けて多方面で加工技術に著しい進歩がみられるなか、こうした新しい動向は営業のあり方にも影響を与えた。単に品質の良い小麦粉を販売するだけでなく、その加工技術(ノウハウ)をセットにした販売活動が必要とされる時代が訪れたのである。
そこで、こうした時代の要請に応えるため、当社は1975年(昭和50年)9月に技術センターを設置した。同センターでは、営業部門および中央研究所と密接に連携しながら、小麦粉の加工技術の開発、ユーザーに対する技術指導、技術サービスなどを行い、販売活動をバックアップする業務を担った。

  • 西部技術センター(神戸甲南工場内)

  • 千葉工場内に完成した東部技術センター(現在は渋谷区千駄ヶ谷に移転)

1976~1995

激変する経営環境に対応するための未来を見据えた全社的再構築に挑みながら、
阪神淡路大震災の試練を乗り越えた日本製粉の歩みは、新たな挑戦の時代に突入しました。

Close

1978年(昭和53年)3月に竣工した千葉工場は、当時の最高最新の設備を集結して、当社が長年にわたって蓄積した技術の粋を尽くし、製粉業界で初めてコンピュータによる生産管理システムを全面的に導入した、あらゆる面で世界トップレベルの製粉工場であった。
同工場ではさらに、コンピュータによる厳格な品質管理、在庫管理を可能にする自動制御システムを独自に開発し実用化。また、工場と本店のオンライン化に初めて成功するとともに、全面的な自動化による省力化や万全の衛生管理を実現した。一方同時期、千葉工場の完成により、東京工場はその役目を終えた。
その後、1985年(昭和60年)5月には福岡工場が竣工(これにより久留米工場が閉鎖)。1989年(平成元年)7月には プレミックス工場として竜ヶ崎工場が完成した。

  • 福岡工場

  • 竜ヶ崎工場

Close

1990年(平成2年)10月1日、当社はオーマイ株式会社を合併した。オーマイ株式会社の前身は、人造米とマカロニの製造販売を行うため1955年(昭和30年)2月に設立された日粉食糧株式会社である。
「オーマイ」のカットマカロニを世に知らしめた同社は、その後1962年(昭和37年)、ニップン食糧株式会社に改称した。
さらに、1983年(昭和58年)、同社は社名をオーマイ株式会社に変更し、この年を「オーマイ元年」と位置づけ懸命の販促活動を開始。当社もまたこれを全面的にバックアップし、市場拡大に向けて多角的な活動を展開した。
それから7年後、平成バブル景気のもとで製粉業界の苦境が深刻化するなか、当社は思い切った社内体制の再編成に着手。そのなかでも最大の取組みが、当社とともに日本製粉グループ食品事業の両輪をなすオーマイ株式会社との合併であった。

Close

若者世帯と高齢者の増加、女性の社会的進出などにより高まりはじめた食の簡便化ニーズに応えるため、「健康・安全・おいしさ」を合言葉に弁当や惣菜などに代表される中食事業を開始した。

Close

製粉業界の経営環境は、バブル崩壊後の長期消費不況、価格破壊による低価格化の進行、円高による安値輸入食品の増加等により、悪化の一途をたどった。
そうしたなかで、この試練を乗り越えるべく日本製粉は変革という難事業に着手。当社の未来を賭けた「経営基盤強化のための全社的再構築」がスタートした。
それは、ヒト・モノ・カネのドラスチックな再配置計画までも社長自らが改革の先頭に立って行う、当社の歴史において前例のない取組みであった。

Close

阪神淡路大震災により神戸地区の各工場が被災し、製粉本館と小麦粉タンクが倒壊した神戸工場は全面閉鎖となり、75年の歴史に幕を下ろした。
また、地盤の液状化現象によって建物が傾斜した神戸甲南工場は、長期操業停止を余儀なくされた。
全社的再構築という大事業を推進しているさなか、非常事態という新たな難題に直面した当社は、顧客への製品供給を最優先事項に、神戸地区以外の全工場を総動員して増産支援を行う一方、対策本部を中心に災害復旧に総力を結集した。

  • 荷崩れした神戸甲南工場製品倉庫内部

Close

震災で傾いた神戸甲南工場の建物はジャッキアップ工法で水平に戻す計画だったが、これほど巨大な建物の傾斜修復工事は過去に例がなく、地盤の液状化で基礎自体も不安定という悪条件のなかで作業が行われた。
このように、相当な困難も予想された自力復興であったが、その後、神戸甲南工場に生産能力を集約して年末までに復興を実現。同工場は被災前よりもプレミックスプラントが約7%、製粉プラントが約15%能力アップし、生産効率も大幅に向上した。

  • ジャッキアップ工法による神戸甲南工場本館復興工事

1996~2015

創立100周年を節目として、事業の多角化や海外戦略へのシフトを強化すると同時に、
環境保全活動や食育の普及活動など、事業の枠を超えたCSR活動にも注力しはじめました。

Close

第2次リストラ計画をもとに、当社は食品部門におけるパスタおよび冷凍食品の生産体制再構築について、分社化の方向で実現することをめざした。
そして、1996年(平成8年)6月、ニップン冷食株式会社を設立。高崎・竜ケ崎両工場の冷凍食品プラントが同社に移管され、それぞれニップン冷凍高崎工場、ニップン冷食竜ケ崎工場となった。

Close

1996年(平成8年)9月26日、当社は創立100周年を迎え、コミュニケーションネームと新しい会社ロゴを制定した。
コミュニケーションネーム「NIPPN」(ニップン)は、当社が取引先や関係業界から“ニップンさん”の愛称で親しまれてきたこと、また“ニップン”を冠する子会社も数多くあることから採用された。
また、東京と大阪で特約店や報道関係者を招待し、「創立100周年記念コミュニケーションネーム&新製品発表会」を開催した。
そして、「ハート」など19品目の新製品を8月20日に発売。10月1日にも業務用小麦粉「センチュリー」など10品目とプレミックス「Y150カレーパン」など6品目を、同じく100周年記念新製品として発売した。

  • 創立100周年記念 コミュニケーションネーム

  • デザインを一新した家庭用小麦粉

Close

1998年(平成10年)、前年の京都議定書採択を受けて、当社は環境委員会(後に環境部会と改名)を設置し、地球温暖化防止の取組みや廃棄物量の削減など、環境・資源に配慮したさまざまな取組みを開始した。

Close

当社は、パスタ生産部門をニップン冷食株式会社にならった形で分社化する準備を進めた。そして、グローバルな大競争時代に突入したパスタ市場の動向に対して、機動的に対処できる経営基盤と生産体制の構築を図り、より積極的に事業展開を進めていくため、1998年(平成10年)3月、オーマイ株式会社をパスタ生産会社として新たに設立。厚木・加古川両工場は同社に移管され、それぞれオーマイ厚木工場、オーマイ加古川工場となった。

Close

当社は「すべてのお客さまから信頼される企業として、力強く成長しつづける」とともに、「お客さまにご満足いただける競争力のある、もっとも優れた商品とサービスを提供し、社会に貢献しつづける」という企業理念の実現に向けて、2000年(平成12年)4月、「日本製粉の使命」「わたくしたちの理念」「環境方針」を制定。
そして、地球の未来にとって環境問題が緊急重要課題のひとつであると位置づけ、環境保全に積極的かつ継続的に取組み行動するとともに、その取組み状況を開示する「環境報告書(現在のCSR報告書)」を作成した。

  • 環境報告書(2000年発行)

Close

2002年(平成14年)8月、わずか2分でゆで上がる画期的なマカロニ「オーマイ 早ゆでサラダカールマカロニ」を発売。その後も「早ゆでサラダマカロニ」などを順次発売し、「オーマイ 早ゆでマカロニシリーズ」として展開していった。マカロニのゆで時間が長いという消費者の不満を解消するとともに、調理段階での消費エネルギーの削減を可能にした。
こうした点が認められ、翌2003年(平成15年)、第33回食品産業技術功労賞を受賞した。

Close

「オーマイプレミアムシリーズ」は、ソースや具材たっぷりな「紙トレー入り」の高付加価値な家庭用冷凍パスタとして開発された。
ワンランクアップの味の良さに加え、「お皿がいらない!らくあけトレー」のキャッチコピーそのままに、先駆的に採用された紙トレーの便利さが人気を呼び、2005年(平成17年)に発売した「たらこといかスパゲッティ」が大ヒット。
翌2006年(平成18年)には、同シリーズが第11回世界ヒット商品コンクールの日本代表に選出された。

  • 「オーマイプレミアム たらこといかスパゲッティ」(2005年発売)

Close

日系冷凍食品メーカーの多くが中国に進出していることを受け、当社は中国での事業展開がますます重要になるとの判断から、2003年(平成15年)4月にプレミックス類の製造及び販売事業を行う新会社「上海日粉食品有限公司」を上海市に設立。2004年(平成16年)11月には、当社が業務用プレミックス事業で培った開発・製造・品質管理のノウハウを投入した工場が完成した。
当社はさらに海外での事業展開を進めた。タイにおけるプレミックス事業を拡大するため「NIPPN(Thailand)Co.,Ltd.」を設立し、2008年(平成20 年)1月に工場が竣工。
また同年、北米西海岸地区における業務用食材および加工食品の販売拡大を図るため、ロサンゼルスに現地法人「NIPPN California Inc.」、そして項新国際集団、伊藤忠商事株式会社と三社合弁で、中国に天津全順食品有限公司を設立するなど、多角的食品企業として、海外事業を拡大・強化していった。

Close

2003年(平成15年)、業務用「ローストアマニ粒」の取り扱いから当社のアマニの歴史がスタートした。2年後には、アマニの粒から搾油してとれる「アマニ油」の販売を業務用として開始。その後、健康志向の高まりとともに注目を集め、家庭用として発売するや大ヒット商品になった。
現在は「ニップンのアマニ」として、「アマニ油」に加え、ドレッシングやマヨネーズのほか「アマニ油」を使った調理品やサプリメントなど、幅広いラインナップで市場のニーズに応えている。

Close

グループ会社のニップン不動産株式会社が北海道深川市に所有していた約23,000㎡の広大な遊休地を、CSR活動の一環として「ニップン四季の森」として整備・開放した。
2011年(平成23年)から10年をかけて、エゾヤマザクラやナナカマドを植樹し、地域の人々の憩いの場として利用してもらうこと、そして、四季折々の自然を楽しめる森をつくり、生態系保全のモデルケースの場として活用することを目的としている。

2016~

Close

TOPへ戻る